2024年12月10日 12:11
イタリア紀行
自由の人よ、君はいつでも海をいとしむだろう!— ボードレール「人間と海」
海こそが君の鏡だ。君は自分の魂を限りなく寄せては返す波に見る、 そして君の精神も深淵の苦さにおいて劣りはしない。
今回のイタリア旅行の目的はヴェネツィアビエンナーレの鑑賞とされる。しかし、わたしにとっての目的はフィウメであり、ミラノであった。イタリアという場所は私にとっては共鳴するイタリア未来派の故郷であることなどから愛着のある土地である。ビスマルクはリソルジメント時のイタリアをつぎのように述べた。「イタリアは国家ではなく半島である」。イタリアの統一運動の歪みというものは、歪んだナショナリズムを生み出した。その舞台となったのは今回訪れたフィウメであった。そして、歪んだナショナリズムによって生まれたイタリア未来派はミラノで誕生した。未来派はロシア、フランス、日本など世界各地に波及した。そして、それらはイタリア未来派の源流となったバクーニン想定の範囲内であろう破滅を世界にもたらした。ファシストとボリシェヴィキはリベラル=西欧資本主義に対するものであり、そしてお互いに未来派の洗礼を受けていた。今旅行はそれら研究の第一段階である。時系列に沿って散文的にイタリアについて書いていきたいとおもう。
ヴェネツィア
空からみたヴェネツィアはラグーンの中にある平べったい陸地。それも島原の雲仙岳の噴火によってできた九十九島のような土が飛び散った形をしている。
ヴェネツィア空港に降り立った。空港の規模は中規模といったところで、いくら観光地と言っても欧州間の移動は基本陸路であるし、その程度で十分だろうといった感想だった。
街までのバス移動はニュースで報道されていたような世紀末のような……チンケな看板に、倒壊した住宅、道はきれいだが、街を歩く人々に活気はなかった。病人のように。
土砂降りのなかで駅に向かい、鉄道に乗った。
ヴェネツィアはスリが多いというが
このような狭い地域において、住むという金銭的価値のほとんどないこの場所に、住むメリットがあるのであろうか? 駅前の裏路地、ビエンナーレ会場の運河沿いの家には多くの人が住んでいる。屋内からは子どもの声とお母さんの声が聞こえる。しかし、家賃はニューヨークや香港ほどは高くないが、東京と比べると倍ちかくする(それも新宿と比べて。)
ヴェネツィアは1950年代には17万人が住んでいた。しかし、現在では約5万人。12万人が島を去った。ヴェネツィアは住んでいるひとも込みでのヴェネツィアであるが、観光のために観光地を捨てるヴェネツィアは一体どうなるのだろうか?
駅には中東系の住民が集まっている。
日本の移民問題を考える上でもこれから大切になるものだと思った。後述するヴェネツィアの地元住民の交流も現在埼玉で起こっているクルド人問題の検討に使えるだろう。
ヴェネツィアビエンナーレでは進歩的な国の作品はちんけなものが多かった。人間愛だったり、世界平和、多様性なんていう御託を並べ、なんら中身のない意味がありげな作品を作り出すことを生きがいにしている可愛そうな芸術家の展示会であった。ドイツ館はドイツ・ロマン主義の影響を引くナチス臭さがまだ残っていた。アルバニアとセルビア館の空虚さだけが私には刺さった。
未来派宣言にあった、「闘争の中にのみ美は存在する」というマリネッティの言葉は正しかったんだなとつくづく思った。
ヴェネツィアビエンナーレの会場を足早にでて、ヴェネツィア海洋史博物館に向かった。ここではヨーロッパの船の歴史と海軍の歴史が模型を使って紹介されていた。
この近くにはゲーテが「イタリア紀行」において泊まった「エリザベス館」があったが、詳しい場所がわからなかったので、また今度来たときに立ち寄ってみたいと思う。
その後はヴェネツィア共和国の総督官邸であったドゥカーレ宮殿やサン・マルコ広場、リアルト橋を観に行ったがべつにこれといった感想はないので省略する。
ヴェネツィア・ゲットーを訪ねて
ヴェネツィアにはゲットーが存在した。ゲットーの名前の由来ともなったこのゲットーは周囲を運河によって囲まれており、ヴェネツィアユダヤ博物館、ユダヤ教の教会がある。真ん中には大きな広場があり、その広場を囲うような形で住宅が建っている。イタリアファシズムの中核である未来派のマリネッティは『共産主義を超えて』において次のように述べていた。
イタリアには反ユダヤ主義は存在しない。したがって、我々には救済、評価、または追跡すべきユダヤ人はいない。
しかし、イタリアファシズム政権内部においては伸長するナチス・ドイツに影響を受けた反ユダヤ主義が高まり、1938年には人種法が制定され、ユダヤ人の弾圧がイタリアでもはじまった。バタイユがちょうどイタリアファシズムに幻滅した時期である。そして、1943年のバドリオ将軍のクーデター後の(ムッソリーニが軟禁されイタリア王国は連合国に降伏。)ナチス・ドイツの進駐とそれに伴うイタリア社会共和国の誕生はイタリアにおけるホロコーストの始まりともいえる。ここで、ヴェネツィア・ユダヤ方言などといったヴェネツィア・ゲットーの歴史は途絶えることとなる。
ヴェネツィアの夜
ヨーロッパの夜はとても静かである。日本のように24時間営業の店はなく、遅くても22時にはすべて閉まってしまう。空いているのは無人の自動販売機のみであった。私は夜、目が醒めたために街を徘徊していた。
メストレの駅に向かって歩いた。駅前では中東系や北アフリカ系の住人、スペイン系、南米系の住人が集まって始発電車を待っていた。住人と思われる人に話しかけられた。
「こんな時間に一人でなにをしているのか」
「目が醒めたので徘徊している」
「どこから来たのか?」
「日本 東京」
すると、住人は一緒にいた女性に声をかける。
「この子、日本から来たらしいよ」
「日本! 去年にアニメの関係で行ったんだよ」
「このあと時間ある?」
そう聞かれたので、「あるよ、でも7時には帰らないといけない。ホテルで朝食をたべないといけないから」と答えた。
すると、「ついて来て」と言われ、二人は歩き始めた。
少し歩くと、公園があり、そこにはアフリカ系、中東系、スラブ系の住人があつまっており、田舎のコンビニの前のように、歌舞伎町のトー横広場のようにみんながお酒を飲みながら、たばこやマリファナを吸っている。みんな、ヒップホップを流して踊ったり、自転車で遊んだりと好き勝手にやっていた。
すこし、羨ましい気もしたが、新宿にも同じような場所はあるし、こうはなってほしくないなとも思った。
フィウメに向けて
朝の3時40分にホテルを出た私はメストレの駅に向かい、4時のバスに乗った。行き先はリエカ。7時にトリエステに到着した。トリエステの街は長崎のような神戸のような坂の街であり、街のすぐ側まで山が迫っている。
街をでるとすぐにイタリアスロベニア国境を越え、ヨーロッパの典型的な田舎の風景が広がっていた。この道路はイタリアからクロアチアフィウメに向かうための道路であり、沿線に大きな街などはない。
1時間ほど乗っているとイストリア半島の付け根のあたり、アドリア海がトリエステで観た同じ青色で輝いていた。断崖に家々が立ち並び、それは日本ではみられない異国の風景そのものであった。
フィウメに到着した。朝の9時。
フィウメの街はやはり旧ユーゴスラビアということもあり、どこかスラヴ的でロマンス的でもあった。フィウメではイタリア時代に建設された合理主義建築、そしてフィウメの総督府としてつかわれていたクロアチア沿岸海事歴史博物館が目的であった。
フィウメ
1918年10月30日、第一次世界大戦後の混乱のなかでフィウメのイタリア系住民からなる、イタリア=フィウメ民族会議は住民投票での結果を受けてイタリアへの併合を宣言した。しかし、それをフィウメを統治する連合国軍は無視した。19年6月フィウメに駐留していた連合国軍のイタリア兵とフランス兵が内紛を起こし、この事件をきっかけに、駐留していたイタリア軍は大幅な削減されることがきまった。駐留していたイタリア軍のなかからダンヌンツィオを指導者として決起する声が高まり、2600名の義勇軍を率いたダンヌンツィオは9月11日、フィウメに向けて進軍し、12日には連合国を追い出して、全権を掌握した。イタリア政府はこれに対して、敵対姿勢をとり、国境を封鎖し、経済制裁によって、和解し事態を収拾しようとした。ダンヌンツィオは革命的サンディカリスト、デアンブリスを内閣首班に置き、20年7月デアンブリスの草案を基にカルナーロ憲章を公布、地方分権的な生産者の国を建設する構想を発表した。
このフィウメ占拠と呼ばれる事件において有名な一幕がある。ダヌンツィオは占拠の直後、この総督府庁舎のバルコニーから演説を行った。(職員に確認済み)これはこの後ムッソリーニやヒトラー、三島由紀夫のバルコニーでの演説に引き継がれることになる。
フィウメではフランスパリからバカンスに来たと言う男性とバスターミナルで会った。彼はつぎのバスでクロアチアの首都ザグレブに向かうところだという。そういえば、行きに乗ってきたバスもフランスのリヨンから来ていた。ヨーロッパではこのような高速バスがよく走っている。フィウメに来るバスもハンガリーのブダペストやイタリアのナポリなど様々な行き先があった。
ミラノ
フィウメは日帰りでヴェネツィアのホテルに23時頃帰ってきた。そして、つぎの日の移動に向けて眠りについた。
ミラノに向かった。バスで入ったミラノの街は映画でしか見たことがなった風景そのままであった。
ミラノではブレラ絵画館とリソルジメント博物館に行った。ブレラ絵画館ではイタリア未来派のウンベルト・ボッチョーニの絵、その他抽象画だけがよかった。リソルジメント博物館では赤シャツ隊の制服、ナポレオンの胸像、ガリバルディの胸像などが展示されており、イタリアの誕生という意味ではイタリアの歴史の中ではローマ帝国に次いで大切なリソルジメントが郷土資料館程度の規模で十分なのか?
ミラノ二日目は早朝からトラムに乗ってサンセポルクロ広場に向かった。ここは、1919年3月23日イタリア戦闘者ファッシの結党集会が行われた場所である。
ファシズムが生まれたこの地は警察署と駐車場になっていた。
これらヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアなど都市の――工業の発展がイタリア未来派の誕生につながる。
2024年11月27日